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加藤 信夫(かとう のぶお、1917年4月2日〔- 戦死)は愛知県出身のプロ野球選手。 ==来歴・人物== 中京商業学校(現:中京大学附属中京高等学校)在学中、チームは甲子園に3回出場(1933年春、1933年夏、1934年春)したが、加藤自身は補欠だった〔。 中京商を卒業後、1936年に専修大学に入学。しかし、同年7月に佐々木政の斡旋により大阪タイガースに電撃入団(このため、専大を僅か半年で中退せざるを得なくなった)。この入団の裏には滝野通則(後にプロ野球審判員)が契約不履行を犯し(タイガースと契約し選手登録も済んだが、許可なく法政大学に進学した)、職業野球聯盟から除名処分(ちなみに、滝野が除名第一号選手でもある)を受けたため、阪神の内野陣が不足した事情があったと言われている〔。 入団後は小島利男の入団・台頭や藤村富美男のコンバート(投手から二塁手へ)があった事も影響して、出場機会には殆ど恵まれなかった。選手としては18試合(捕手1試合、二塁手10試合、三塁手1試合)〔の出場にとどまった。一方で、裏方としてチームを支えた面もあり、1937年には青木正一と共に「打倒沢村」をモットーに打撃投手役を務めた。その練習法とは、通常の投球位置の1m手前から投げるという当時では斬新な物だった〔げんまつWEBタイガース歴史研究室 〕。練習の甲斐があって、タイガースはこの年のペナントを制した。 1938年1月に応召され、戦死(没年月日、死没場所は不明)した。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤信夫 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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